被害者の声に心を寄せて 

被害者の声に心を寄せて 

母子の満面の笑み、何処へ

 この上ない幸せに包まれた母と子…よちよち歩けるようになったことが嬉しくて、何度転んでも起き上がって歩き出していたね。”いない、いないバー”が好き、それからマンマ・ブーブー・バイバイとか、喃語でよくおしゃべりしたよね…1歳4カ月の愛しい息子、広登。結婚して初めて授かった自分の命より大切な宝物でした。健やかな成長を楽しみに、大事に大事に育ててきたのに、あまりにも突然、息子の生命と未来が奪われ、私の腕の中から引き離されてしまいました。
 あれから長い年月が経ったけれど、自分の身に起こった出来事と信じたくない気持ちが、いつも心のどこかにあります。1歳4カ月のままの息子と毎年歳を重ねていく自分…それまで一生懸命努力してきたことは無駄だったのか、何か悪いことをしたというのか、いったい自分の人生は何だったのだろう…と自問するばかりで、心の傷が癒えることはありません。

 

 フルタイムで働いていた私は、息子が1歳になるまで育児休暇を取り、その後仕事に復帰して実母と義母に交代で預かってもらっていました。
 復職して4カ月余り経った1995年12月6日、実母に預けていた時のこと、母は、天気がいいからと、午前10時過ぎに息子をおんぶして散歩にでかけました。私の実家は現佐久市(旧望月町)内の山間地にあります。事件現場はセンターラインのない幅6mほどの道路で、交通量は多くありません。加害者は当時50代の団体職員の男性で、現場から4kmほど上の温泉宿で、前の晩に職場の忘年会で多量の飲酒をして泊まり、当日の朝食時にもまた酒を飲んで、しばらくして自分の軽トラックを運転して帰宅する途中でした。道路に歩道はなく、母の進行方向に向かって右側に用水路があったため左端を歩いていたところ、後ろからはねられたのです。

 

 12月といっても道路が凍結していたわけではなく、夕方で見えにくい状況でもなく、急ブレーキの跡もなくて人にぶつかるまで気がつかないなんて、弁解の余地もありません。
 連絡を受けて病院へ駆けつけた時には、すでに息子の意識はありませんでした。後ろからはねられたため、母はかろうじて軽症でしたが、衝撃がほとんど息子の頭にかかり、医師からは「脳幹付近から出血が見られ、助かる可能性は1パーセント」と告げられました。そして願いは届かず翌日未明に永遠の別れとなりました。私はその事実を受け入れることができず、周りで着々と葬儀や納骨が執り行われているのに、夢の中の出来事のような感覚で、感情が麻痺していました。しばらくは、夢を見ているのかも、夢であってほしい…と思いながら過ごしましたが、息子に会えない時間が長くなればなるほど辛い現実を突きつけられ、幸せの絶頂から奈落の底へ突き落とされたように感じました。そして、早く息子のそばに行きたいとか、あらゆるマイナスの感情に襲われ、それに耐えるだけで精一杯の毎日。それでも、同じように悲しみに暮れる家族に心配をかけたくないと、深夜布団の中で号泣している状態でも医療に頼ることもなく、何とか仕事だけは続けていました。
 事件から間もない頃は、テレビをつけて、いきなり1歳くらいの赤ちゃんが目に入ると、胸を締め付けられる気持ちになりました。また、気晴らしに散歩や買い物で外出してみると、なぜか幸せそうな子ども連れの家族が目につきます。なので、テレビを見られない、外出も避けるという状況が長く続きました。また、息子との思い出が詰まった自宅に住み続けることができなくなり、事件後半年間は、自分や夫の実家に身を寄せながら生活しました。家族にも様々な影響が長年にわたって現われました。仕事を辞めざるを得ない、精神科へ通院する、学校へ通えない、近所や親戚と疎遠になる…数えればきりがありません。たった一瞬の避けられたはずの交通犯罪が、未来ある尊い命を奪い、さらにその何倍もの周りの人々が耐えがたい辛苦に見舞われ、一生背負っていかなければならない心の傷となってしまうのです。
 また、私の手の届かない所で起こった事件ではありましたが、親としてどうして守ってあげることができなかったのかと、自分を責める気持ちに苦しめられました。子どもを守るというのは、親として根本的な役目のはず。自分が何か別の行動をとっていたら防げたのではないかと、追い詰められてしまいました。

 

 そんな中でも、私は夫とともに、親としてできる限りのことをしたいと考えていました。そして偶然、当時としては先駆的な被害者支援の取り組みをされていた、富山県内のご遺族を知り得て、助言いただくことができました。刑事裁判では、事故調書の閲覧、裁判の傍聴、上申書の提出など、自ら検察庁に出向いて情報を得ながら働きかけました。民事裁判も起こしましたが、加害者の弁護士からは”ベビーカーに乗っていればよかった”などと、被害者側にも非があるかのようなことを言われ、とても傷つきました。それでもこの時、自分なりに精一杯かかわれたという気持ちを持てたことで、少し前向きになれました。
 加害者は、刑事裁判で”懲役1年6ヵ月執行猶予4年”の有罪となりました。飲酒運転で死亡事故を起こしたのに、当時は処罰が軽く、執行猶予が付きました。この執行猶予期間が過ぎれば、また何事もなかったかのように、普通に地域で暮らしていけるのです。加害者は、この間に行政処分で取り消された運転免許をまた取得して車を運転しはじめました。しかしある日、信号機のない交差点でバイクに乗った60代の女性と出合い頭に衝突して、その女性は亡くなってしまったのです。私はこの事実を知り大きな打撃を受けました。なぜにニ度も尊い命を奪ってしまったのか、しっかりと罪に向き合い、心から反省していないからではないか、そう思わずにはいられませんでした。加害者は再び交通死亡事故を起こしたことにより、2年4ヵ月の実刑となりました。自分が犯した罪の大きさがどれほどのものかよく考え、心底謝罪の気持ちを持ちながら過ごすことが、人としてあるべき姿ではないかと思います。

 

 私は、事件直後、同じような境遇の方と会って話がしたいと思いましたが、近隣では見当たりませんでした。そして7年ほど経ってようやく、NPO法人認証前の長野犯罪被害者支援センターの存在を知り、その事務局の紹介で県内の凶悪犯罪や交通犯罪のご遺族とつながることができました。そして、これを機に生命の大切さや犯罪抑止、被害者支援の必要性などを発信する取り組みを続けてきました。同じように辛い経験をした皆さんと出会い、語り合い、活動することで、どんなに救われたことでしょう。支え合い励まし合う仲間は、前に歩みを進めるための大切な存在です。
 人はだれしも、他人により傷つけられ、耐えがたい辛い状況になることがあるかもしれませんが、それでもまた、他の人との温かなかかわりにより、生きていく気力を見出せるのではないでしょうか。ある日突然、事件・事故の被害者や遺族となってしまったら、置かれた状況の理不尽さに他人を信じられなくなり、人を信じる気持ちを回復させるのは容易ではありません。けれど、助けを求めれば必ず受け止めてくれる人がいるはず。そばで話を聞いて、一緒に歩んでくれる人がいることを忘れないでほしいのです。
 今ようやく、各方面で”犯罪被害者の人権”に目が向けられはじめました。犯罪の被害に遭うことは、だれの身にも起こり得ること。人命が最も優先され、だれもが安心して暮らせる社会に…皆で力を合わせて実現させていくことが、私たち一人ひとりの役割だと思います。

 

  ~広登へ~

 1年4ヵ月の短い間だったけれど、健康ですくすくと成長していく姿に、心は和み幸せいっぱいの日々でした。それなのに突然、心ない者の暴挙によって、希望に満ちた未来を断ち切られてしまい、どんなにか無念だったことでしょう。そして、かけがえのない広登を奪われたお母さんは、例えようのない辛く悲しい日々を送ってきました。けれど、生涯変わることのない加害者への怒りと憎しみを、同じような思いをする人がうまれないように取り組む原動力に替え、いつか”お母さん、頑張ったね”と言ってもらえるよう、これからも精一杯生きていきたいと思います。
いつの日か同じ世界に行けたなら、今度はずっと一緒にいようね。

~母より~

 

大塚 清美

PAGE TOP