被害者の声に 心を寄せて

被害者の声に 心を寄せて

 

■手記を全文掲載します。以下


この事件を覚えておられる方はどれくらいいらっしゃいますでしょうか?

事件が起きたのは、2014年5月になります。

私の息子が危険ドラッグを吸った状態で運転していた少年らの車に衝突され、25歳でこの世を去りました。

 

待望の男の子

私の息子は平成元年4月21日私たち夫婦の間に待望の男の子として生を受けました。

末っ子でして、子供のころから元気にどこでも走り回るような子でした。

そして保育園の時に、遠足で消防署の方に行き、その頃から消防士になりたいとずっと夢を見ておりました。

子供のころから野球をやっており、野球は小中高と続け、高校野球も頑張って取り組んでいました。

高校を卒業してからは、夢であった消防士になるために、専門学校に3年間通い、その後、ご縁があって岳南広域消防本部に採用され、念願の消防士として勤務し始めました。

そして息子は当時お付き合いしていた女性と事故の半月前に入籍したばかりでした。

4月26日に入籍し、その前に結婚のお祝いを兼ねて2人でディズニーランドに行き、5月の連休にうちに報告にきました。本当にうれしそうで、9月に結婚式を予定していて、パンフレット等を持ってきて、幸せいっぱいで。

その年の連休中は雨が続いていましたが、家族や兄弟でどうしても焼き肉をしたいと言い、寒いから次の機会にすればいいのではと言いましたが、どうしてもというので、みんなで庭で焼き肉して、次の日、息子は帰っていきました。これが息子の元気な姿を見た最後になってしまいました。

事故が起きたのは、それから間もなくのことでした。

 

危険ドラッグの常習者

当日、息子は消防の夜勤明けでした。当時、気管挿管の資格をとるため、病院で実習をさせてもらっておりました。前日にも実習をさせてもらったので、勤務を終えた息子は患者さんのところにお礼の挨拶をするために病院に向かったそうです。

そして消防署に寄って、その帰りに事故に遭いました。

 

加害者の少年とその先輩が乗った車、2人は危険薬物の常習だったようで、郵便局まで送られた薬物を取りに行ったそうです。三才駅経由で中野方面に向かいながら、危険薬物を吸うところを探していたようで、先輩の車だったので、最初にその先輩が薬物を吸いながら運転を始めたようです。

その時に吸引したものは強烈だったみたいで、先輩と称する人間が意識を失い、運転ができなくなったようです。

隣に乗っていた事故を起こした加害者が運転を代わり、中野に行く途中の橋のたもとに車を止めて、今度は二人で吸い始めたようです。

どのくらい吸っていたか分からないようですが、途中意識が戻ったところで、中野駅に行くということで話がまとまったようで。信州中野に向かって運転を始めて、また運転中に再度吸ったようです。そして信号機で吸ってから本人は意識が無くなりました。

薬の影響でけいれんしはじめ、アクセルをべた踏みしたようです。ドラレコの画像を見ると、車は反対車線を逆走し、息子の前を走っていた車にぶつかり、その衝撃で横を向き、そのまま息子の車に突っ込んできました。

1台目の車の方も大変な怪我をされたそうで、命を落とす一歩手前までいったようで、何カ月も動けなかったようです。

息子のところに当たったわけですが、相手の車が大きな乗用車で、時速130キロ程のスピードで、すごい圧力で当たってきたみたいです。

衝撃がまともに息子の軽にぶつかり、車ごと5メートルほど空中を飛ばされたそうです。その先に派出所のブロック塀があり、そこにまともに体をぶつけたようです。

 

知らせを聞いた時

お昼の時報がなり、私がちょうどお昼を食べているときに消防署の上司の方から電話があり「川上君が事故に巻き込まれました。怪我の具合がひどいので、すぐに来ていただけないか。」という内容でした。私は、息子が丈夫だったので、まさか命を落とすような状態だとは思いませんでした。塩尻から息子が運ばれた病院に着くまで、本当に色々考えながら、気を落ち着けるように運転してまいりました。

私たちが着いた時には、もう亡くなっていました。

霊安室で息子の顔を見るまでは、本当にまさかという気持ちが強かったです。

本当に自分自身、その時の記憶が曖昧なのです。何を考えていたのか、自分ではしっかりしているつもりだったのですが、そこからは暫く、朝から晩まで本当に雲の中にいるような感覚でした。

家族中がパニックと言いますか、何も考えられない中で、息子の同期の皆さんが弔問客を案内してくれて助けて頂いたことを覚えております。

 

事故直後の心境

事故の後、一週間ほど中野警察署の方で事情聴取を受けました。 

警察官の方から被害者支援制度についての資料ももらったのですが、私がしっかりしていなければという気持ちが私の中で本当に強く、ざっくり「被害者の心のケアの相談をする場所かな。」と思っておりました。しかし知り合いのご遺族が積極的に支援センターの支援を受けて裁判に臨まれたという話を聞いたりして、今から思えば、裁判が始まり刑事手続きが始まってからは特に支援を受けていれば良かったなと思っているところです。

事件後、検察庁で事情聴取を受けるわけですが、そこで被害者参加制度のお話を検事さんから聞きました。「希望されるなら弁護士をつけた方がいいのではないか。」とアドバイスをもらい、また法テラスの案内もしてもらいました。

裁判員裁判の経験のある弁護士さんを探しましたが、法テラスの方でもいろいろとアドバイスを頂きまして、地元の近い弁護士さんにお願いすることにしました。

 

裁判員裁判、被害者参加制度

私も裁判所というところには、生涯縁がないと思っていたところでした。

自分が経験してみて思うことは、裁判所というところは、被害者側の意見を汲み取ってくれるのかなと思っていましたが、また違うルールがあるということです。

私の場合、究極のところ、裁判所とは有罪であるか無罪であるか、量刑を判断する場であって、被害者や被害者遺族の気持ちを静めるところではないと痛切に教えられました。

私たちの裁判は、裁判員裁判で、私は被害者参加制度を利用して裁判に参加しました。

裁判の中では、被害者関係者としては本当につらい体験をしました。

被告の言い訳、弁解、被害者遺族に向けたものではない反省の言葉、これを真顔で聞かないといけないのです。反論もできませんし、裁判が始まるまで何もしなかった被告がその場で一生懸命反省の言葉を述べるのです。それから弁護士が書いたものを読む。裁判が始まるまで1年半もあったのに、それまで何もなかったのに、さかんにそこで反省の色を出していて、本当に苦痛でしかありませんでした。

 

被害者遺族としてのつらさ

また被害者意見陳述についても、被告人質問をしてすぐ5分後に意見陳述をしてくださいと言われました。本当は被告人質問で何を言うかよく聞いた上で意見陳述をしたかったのですが、裁判官に何度もお願いをしたのですが、やっぱり日程を優先され、かなうことはありませんでした。時間の中に組み込まれている、私はただの駒なのだなと思いました。

私たちの時の裁判員裁判は月曜日に始まり金曜日に終わりました。

裁判員の方に負担をかけないよう短時間で終わらせたいという風に見えて仕方ありませんでした。

ドラマの中では言いたいことも言える、意見を素直に言える姿が映し出されますが、「ドラマとは違うのだな。」とひしひしと感じました。

他県で裁判を見たときに、裁判の流れや、形ばかりのものになるか、それとも意見を取り入れてくれるかは裁判長の裁量によっても変わってくるなと感じました。

被害者が置いてきぼりにならない裁判になってほしいと思います。

 

同じ境遇の遺族との絆

そんな中で気持ちが落ち込んだままになってしまいますし、次に向かっていくことが正直できませんでしたが、秋山さんというご遺族(平成26年1月、香川県内で発生した危険ドラッグ使用による危険運転致死事件被害者のご遺族。被害者は、当時小学5年生の御長女実久さん。)とお話しすることができました。お互いに同じ被害者であること、気持ちを開いてお話をすることによって、気持ちが和らいでいくことを感じました。秋山さんもおっしゃっていましたが、知人に励まされ、「気持ちがわかる。」「頑張っていこうね。」と言われるたびに、「本当にあなたに気持ちが分かるのか。」という負の気持ちがわいてしまうことが自分にもあったので、とても共感できました。

秋山さんのご経験からですが、秋山さんはサラリーマンなので、事故当時は職場もだいぶ気を遣ってくれたそうです。ただ裁判が始まる1年後くらいには、検事や弁護士との打合せ等も増えてきて、休暇をとらないといけない。当初は気を遣ってくれていた職場も事故から時間が経つにつれて「また休みとるの。」と言われることも増えていったそうです。

そういう苦労があるということを再認識しましたし、特に会社勤めの場合に職場の理解も本当に重要だと思いました。

 

国への働きかけ

秋山さんと知り合って、厚生労働省に危険ドラッグの規制強化の陳述に行くことになりました。当日、規制労働委員会で議員の皆様に何とか早く法改正をしてもらえないかとお話をさせてもらいました。やはり、当時毎日のように危険ドラッグ関係のニュースが流れていたこともあり、与野党関係なく、各党の議員さんが同じ気持ちになって頂いたと思います。国会でも法改正の必要性を訴えて頂き、おかげさまでその年の2014年12月には危険ドラッグによる保健衛生上の危害の発生の防止等を図るための法改正がなされました。

 

最後に

私たちは、当時危険ドラッグって、度々ニュースで流れていても、どういうものかも知りませんでしたし、何か危ないものなのだろうという認識しかありませんでした。

まさか息子がその被害者になるとは夢にも思っていませんでした。

被害者は理不尽なことで被害者となってしまいます。

本当に悔しいですし、被害者になりたいと思う人は一人もいないと思います。

息子は25歳という道半ばの若さで亡くなりました。

自分では遣り残したことが沢山有った事だろうと思います。

変わってやりたくても出来ません、それを思うと悔しくてなりませんが、残された私たちはこの経験したことを無駄にせずに法及び制度の不備も含めて広く大勢の皆さんに

被害者及び被害者遺族となってしまった経験をお伝え出来ればと思っています。

願わくは、不条理な事件で傷つく人が出ませんように、祈っております。

 

(文 川上 哲義)

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